才能とは、情熱や努力を継続できる力である
「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」
羽生善治
何かを極めよう、と思った時の心情をこれほど的確にとらえた言葉があるだろうか。最近、ツイッターでめちゃくちゃRTされているのを見て思った。
思えば、娘はスポーツでも運動でも身体を動かすことに関してはなんでもすぐそこそこできるようになっていたように思う。最近でもスイミングスクールと同じ館内の体操の練習を見て独学で倒立を覚えて補助なしの倒立前転までやっている。
水泳は、そういう「そこそこ」のものの中では当初はまったく大した出来栄えではなかった。本科の頃はいつになったら進級できるんだよ、と親のこっちが内心嫌気がさしていた時期があったくらいだ。4泳法をマスターしたら辞めさせよう、本人もそのつもりでいた。それが、同級生のママに「もっと続けた方が良い」と強くアドバイスをもらって今に至っている。
ただ、スピードを意識して泳ぐ段階になってからは、また「そこそこ」できるようになった。言われたままに練習をこなしているだけで資格級の6級以上のタイムが出せるようになった。
6級のタイムでもなかなか出せない子はいる。それがサボっているからか、漫然と練習に参加しているからなのかはわからない。娘のように気持ちで負け続けている子もいるかもわからない。
手抜きなのか、無気力なのか、弱気なのか、いずれにしてもメンタルの素質がない子は選手コースには上がれない子なのだ、というのはなんとなくわかってきた。娘の足かせとなっているメンタルの弱さは、何に起因しているのだろう。
どこまでやればいいの?
メンタルの弱さの原因を探るにあたって思い当たったのが、冒頭の羽生善治さんの言葉である。
誰にでもひとつは思い当たることがあると思う。
「頑張って、ダメだったらどうしよう?」
「身も世もないほどにこれに打ち込んできて全て無駄になったらどうしよう?」
「この努力が意味のないものだったらどうしよう?」
それは、
スポーツや将棋や囲碁などの勝負の世界のことかもしれない。
ダイエットかもしれない。
仕事のやり方改革かもしれない。
コトの大小はあるだろうが、今まで費やした時間が何の価値もないものかもしれない、という恐怖は、誰しもが感じたことがあるものではないだろうか。私だって、3日で何の兆しも現れないダイエットは続けるのが不安だ。…身近なたとえで言ったことである。羽生善治と自分を照らし合わせるなんてピンと来ないし、おこがましいです、という謙虚な人向けのたとえだ。
娘には、目的地が見えていないようなのだ。言った言葉が「どこまでやればいいの?」だった。
「やらされている」と思っているのかな、と思った。メンタルが弱く、技術的にも改善できる余地は山ほどある。前向きに考えればある意味、ポテンシャルの塊のようなヤツなのではあるが、そんな気持ちでやっているならば続ける意味はないのだ。辞めることも選択肢として提案してみたが、そういう意味ではないという。
もっと速くなりたい。でも、どこがゴールなのかがわからない。ということなのだという。
つまり、地区大会でも入賞レベルには至らない自分、もっと言えば弱小スイミングスクールの選手コースにも上がれない自分と、オリンピックなどの世界で活躍するトップスイマーを見て、最初に目指す山を見失い、目に入る最高峰の頂をテレビやネットで見て眩暈を起こしてしまっている状態なのだ。
小さな目標からクリアしていこう
目の前の目標をクリアしていくしかないよ、まずは選手コースへ。次は地区大会入賞レベル。その次は…そんな感じで。
でも、本人には「越しても越しても山があるんでしょ」という感じである。一つ目の山さえ登りきれないかもしれない現状から、どうやってモチベーションを保てばいいのか?ということのようだ。
本音をいうと、親の私でもそう思う。何事もそうだと思うが、本気で取り組めば取り組むほど、最高峰の麓に近づけば近づくほどそこがどれほど高い所だったかがよくわかる。
いっそ、神か仏が「この子の限界はここまでで、ここまでは努力させる価値あり」とお告げを出してくれたならどんなにか気が楽か…とさえ思うこともある。
「そこそこ」スポーツができた娘には成功体験がない
入賞経験は小さな空手の形の試合で準優勝したのみである。週1回、ゆるゆるの道場に通っていた時期があり、週1回のわりにはそこそこできた。もちろん、毎日練習する道場の子には敵わない。ただ、同じように週1回の道場の子たちとの試合には勝てたのだ。
ただ、本気で取り組んだわけではない結果の準優勝だったからか、それを自慢に思っている様子もなく、記念のメダルもどこにあるんだかわからない。
娘に必要なのは「必死でつかんだ成功」体験
これだけ頑張れば結果がついてきた!という体験さえ一度でも出来れば、目の前の山の越え方もわかっていけるんじゃないかと思う。ただ、成功体験ありきのそれというのはありえないわけで、やっぱりどうやっても最初の一山は娘本人が自力で乗り越えるしかないのだ。
以前、親にがしてやれることは資金援助とせいぜい送迎と言ったが、この最初の一山を越す方策を一緒に模索してやること、きっと越せると信じてやることは3つ目の「親がしてやれること」だろうと思う。
追記しました。
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